白百合忍法帳
(慶安四年 七月五日)
その日の朝、碧は早朝の人の気配に目を覚ました。
それから数秒後、足音は碧の住む長屋の前で止まると力なく戸を叩いた。
「誰だろう? こんなに早くから……」
碧は薄い布団を捲るとゆっくりと立ち上がり、戸の前に立った。
「誰だい? こんなに朝早くから」
「あたしだよ、ちょっとココを開けておくれよ」
「柘榴……」
碧は心張り棒を外すと柘榴を迎え入れた。
柘榴は俯いたまま力無く敷居を跨いだ。
「どうしたんだい? 柘榴。魚屋のアンタが早起きなのはわかるけど、こんな所に来る時間はないだろう……?」
「あぁ、ごめんよ碧」
柘榴は虚ろな目で碧を見た。
その目に覇気は無く、いつもの柘榴の目ではないことを碧は見て取った。
「それで、どう? あっちの方は……何か手がかりはあった?」
「それがさぁ、ちょいと怪しい女を見つけたんだよ」
「怪しい女? くノ一かい?」
「あぁ、多分ね、そうだと思うよ」
(多分? そうだと思う?)
「それでその女は何処に?」
柘榴は首を俯けた儘、ポツリポツリと昨日までの出来事を話始めた。
(おかしい、こんな話し方をする柘榴では無いはずだ。やっぱりこの柘榴は変だ、様子がおかしい……)
「鬼哭寺……、そんなところに。それで昨夜はそのまま帰ってきたのね」
「うん、そうだよ……」
(何をされたか知らないが、まるで操られているような。こんな時は……)
「それでね、碧……」
「ねぇ柘榴、ちょっとここで待ってておくれ」
碧はそう言い置くと表に飛び出し、風のよう町を駆け抜けた。
長屋に朝日が浅く差し込み始めた頃、碧は戻ってきた。
引き戸を開けると、柘榴はぐったりと項垂れたまま座っている。
その柘榴が碧に顔を向けた。すると碧の後にもう一人の女の姿が現れた。
年の頃は三十路半ば、黒地に赤い牡丹の柄の着物、頭には紅珊瑚のかんざしを粋に挿している。
その女と柘榴の目が合った。
「べに・ば・ち……」
碧が柘榴に歩み寄り、その肩を抱いた。
「どう見てもおかしいだろう、紅蜂。ちょっと診てやっておくれよ」
紅蜂は柘榴の前に座るとその目を覗き込んだ。
「どうしたんだい、柘榴。アンタらしくもない」
「別に……どうもしない……よ」
「んん~、どうやら何か嗅がされたようだね」
「何かって、まさか死ぬようなことは……」
「いや、それならとっくに殺してるはずさ。柘榴を操ってあたし達を罠に嵌めるつもりなんだろうけど、そうは問屋が卸さないよ」
「でもどうすればいいの? あたしにはもうさっぱり」
「とにかく、やるだけやってみるさ」
紅蜂は柘榴の着物を脱がすと、布団の上に仰向けに寝かせた。そして懐から小さな木箱を取り出すとその蓋を開けた。中には数十本の針と消毒用の酒が入っている。
「さて、うまくいくといいんだけど……」
紅蜂は長い針を酒で濡らすと、柘榴の胸のツボに刺した。銀色に光る針は二本三本と柘榴の全身のツボに刺さっていく。
そして十本目の針が眉間に差し込まれた時、柘榴の意識がプツリと絶えた。