死神イングリット
蘭の自宅に救急隊から連絡があったのは、蘭が家を出てから1時間後のことだった。
「夢の森書店」へ入荷した本を取りに行くと言って、自転車で家を出た蘭は雨に降られスピードを上げた。その時、見通しの悪いカーブで小型トラックにぶつかったのだ。現場にはタイヤの折れ曲がった赤い自転車と、頭から血を流す意識の無い蘭の姿があった。
そのまま「夢の森病院」に担ぎ込まれた蘭は緊急手術を受け、今はICU(集中治療室)に入れられたまま余談の許さない状態が続いている。
天空に高く昇った三日月が厚い灰色の雲に隠れ、そして蘭は昏睡状態の儘、24時間が経とうとしていた。
「蘭、コレでも言わずにいられるかしら?」
蘭の快感は更に強まり、全身は指の先まで性感帯となって燃え上がった。
「さぁ、蘭、言って! 言うのよ、ずっとココにいると……」
「いやよ! いやいや、あたしは帰る、帰りたいの! 絶対帰る!」
ICUの前には、蘭の両親が心配そうに事の成り行きを見守っている。
その時、蘭の指先が僅かに震えるように動いた。
「イングリット。あたしはまだまだやりたいことがイッパイあるの。快感だけに溺れている自分なんてイヤ! そんなのあたしじゃない」
「蘭。もういい加減に諦めなさい……」
「うぅん、あたしは諦めないわイングリット!」
夜空を覆っていた厚い雲は、ゆっくりと引き裂かれるようにして分裂を始めた。その隙間から星が瞬き始めた。
「蘭、アナタはこれほどの快感がいらないと言うの?」
「イングリット、あなたはあたしの一面しか知らないのよ。もっともっと大切なものはいっぱいあるわ……」
「アナタは捨てられないわ、この悦楽を。こんなに感じているじゃないの」
ICUで横たわる蘭の胸が、寝苦しそうに大きく息を吸い込むと、ゆっくりと長く吐き出した。いつしか夜空には月があらわれ無数の星が輝いていた。
「蘭、本当にこの快感を無くしてもいいの? きっと後悔するわよ」
「イングリット、これがあなたの全て? あなたが与えてくれるものは快感だけ。それ以外の何を与えてくれるの?」
「蘭……」
「最後のこの部屋だけはクリアしてはいけないのよ。この部屋をクリアすると言うことはイングリット、あなたの言うことを聞くと言うことでしょ!」
東の空が赤く輝きだした。その光は闇を押しのけるように広がってゆく。
「あたしやっと気付いたの。この世界から抜け出すには、この世界で得られるものよりも、もっと大切なものを見つけることなんだわ。イングリット、あたしはあなたと一緒には行けない」
「蘭、ずっとココにいると言って、アナタは……いつか……必ず……ココに」
「さようならイングリット……さようなら」
エピローグ
東の空を赤く染めた光は、やがて星々を掻き消し三日月を飲み込んでいった。
蘭の様態の急変を知った医師がICUに駆けつけた。
生死の境を彷徨っていた蘭が奇跡的に意識を回復したのだ。
翌日、蘭は一般病棟へ移された。
薄く開いた瞼の隙間から、優しく微笑む両親の顔が見えた。
「本屋さん、もう閉まっちゃったよね……」
蘭は自分が24時間以上昏睡状態にあったことをまだ知らない。
「今日から3日間、夏休みだって言ってたのに……」
傍らに立つ母親が右手を差し出した。そこには1冊の本が握られていた。
「はいっ! これでしょ。代わりに買っておいたわよ、蘭」
「えっ? 本当? ありがとう、お母さん」
蘭はハードカバーのその本を受け取った。
「入院中にゆっくり読めば……」
「うん!」
「でも何だか怖そうな本ねぇ、『死神イングリット』だなんて……」
ー END ー