甘く危険な調べ
甘く危険な調べ
PROLOGUE
『クラッシック名曲喫茶 ハイカラ楽団』。そのちょっと変わった看板が目に
留まったのは、映画を見た帰り道だった。
この街には滅多にこないが、今回は遅い夏休みを取ったこともあり、ちょっと
足を伸ばしてみたのだった。
さて、その『ハイカラ楽団』なるカフェは、かなり年月を経たレンガタイルの
ビルの地下にあり、その地下への階段もどこか薄汚れた、よく言えば風情があ
る階段だった。
私は興味本位と僅かな期待を持って、その階段を降りていった。
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『ハイカラ楽団』は、昭和の雰囲気を十二分に残したカフェだった。
店内はちょっとした大広間ほどの広さがあり、10人は座れる長いカウンター
に、テーブル席も20席はありそうだった。
私は一番奥のテーブルに座ると、何気に店内を見回した。
ニコチンで燻された壁には、バッハやハイドンの肖像画が掛かり、今座ったば
かりのこのフワフワの椅子は、ソファのような布張りだ。テーブルはニスの光
る分厚い木製で、そこに置かれたコーヒーシュガーには、細身のスプーンが刺
さっている。
禁煙席と喫煙席はガラスの壁で分けられ、喫煙席には陶器製の灰皿が置かれて
いるようだった。
今年で33歳になる私は、昭和の記憶はあまりない。しかしそんな私でも、こ
のカフェはやはり昭和へタイムスリップした感が否めない。だからカフェとい
うよりは "喫茶店" という言い方が似合っているかもしれない。
コーヒーを注文すると、この見慣れない店内を改めて見回した。
10人ほどいる客は、カウンターや隅の席、壁際の席から座っているようだ。
するとテーブルを2つ挟んでこちらを向いてコーヒーを飲む、上品なご婦人と
目があった。
その瞬間、どこかで会ったコトがあるような、誰かに似ているような、なんと
も言えない感情が心に生まれた。誰だろう、誰だっけ、あぁ思い出せない。
でも凄く気になる。
年齢は私より一回りは上だろか。細身でスラリとした印象だが、大きく隆起し
た胸には細身のネックレスが掛かっている。
すると相手もそう思っているのか、なんとなく私をチラ見し、こちらを気にし
ている感じが伝わってくる。
どこかで会ったコトがあるような、確かに見知っているような、でもわからな
い。私には彼女が思い出せなかった。
その時、店内のBGMが変わった。曲は忘れもしない。私が学生時代吹奏楽部
で練習した『行進曲:明日への希望』だった。
「喫茶店で行進曲? ちょっと珍しいかも……」
そう思った刹那、私の記憶が蘇った。
行進曲、吹奏楽部、そして目の前のご婦人。これらが一つに繋がったのだ。
「石原先生……?」
目の前に座るあのご婦人は、高校時代お世話になった吹奏楽部の顧問、石原由
美先生ではないだろうか。
きっとこの今流れた『行進曲:明日への希望』が、私の遠い記憶を蘇らせてく
れたのだ。しかし、今ひとつ確信は持てなかった。何しろ高校を卒業して10
年以上が経っているのだ。面影もあるし確かに良く似てはいるが、それだけで
本にとは限らない。
そんなことを思っていると、なんとご婦人の方から会釈をしてきた。
やっぱり先生。先生も私を思い出してくれたのだ。その証拠に私を見る目が少
し優しくなった。あの目あの眼差し。もう間違いない。
やっぱり……。私もゆっくりと会釈を返した。
どこかで会ったコトがあるような、確かに見知っているような……。それそれ
もそのはず、まるまる3年間お世話になったのに、今ではすぐに思い出せなか
ったコトが申し訳なくて、後悔に変わろうとしている。
先生は立ち上がるとわたしのほうに歩いてきた。
そして私にこう話しかけてきたのだ。
「長澤さんね。クラリネットを担当していった……」
「はい、長澤詩織です。お久しぶりです、石原先生」
「本当に久しぶり……」
それから先生は私のテーブルに移動すると、ひとしきり昔話に花が咲かせたの
だった。
でも私と先生には、誰も知らない2人だけの秘密があったのだ。